双浦環(柴咲コウ)のモデルは実在した!どんな歌声・生い立ちだったか?

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今回の朝ドラで、柴咲コウさんが演じる
オペラ歌手の双浦環(ふたうらたまき)。

柴咲コウさんの、吹き替えなしのオペラ
とても感激しました!

その双浦環

実際に存在した人なのか、とても気になりますね。

双浦環は、実在したオペラ歌手、「三浦環さん」がモデルです。

三浦環さんの名前は、初めて聞きました。

明治末期から大正・昭和初期に活躍した、
日本人初のオペラ歌手です。

しかも、オペラ「蝶々夫人」を演じて、
日本人で初めて国際的なオペラ歌手として知られた人です。

その時代に、そんなすごい日本人オペラ歌手がいたとは
驚きです。全く知らなかったです。

そんなすごいオペラ歌手なら、
実際どんな歌声だったのか、ぜひ聴いてみたいし、
どういう生い立ちで、日本人初のオペラ歌手になり、
世界的に活躍できるようになったのか、知りたいですよね。

そこで、三浦環さんの歌声や生い立ちをまとめました。

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■三浦環さんの歌声

三浦環さんは、昭和21年に亡くなっていますので、
その歌声の音源が存在するかどうかですが、
Youtubeにあったので、是非聞いてみてください。

私は、初めて三浦環さんのオペラを聴いて、
現代のオペラとは違う、
日本的な「和」のオペラを感じました。

三浦環さんは、子供のころ長唄や箏を習っていますので、
それが影響しているのかもしれません。

それと、日本人が主役の「蝶々夫人」のオペラのせいかもしれません。

何か癒やされる歌声です。

■三浦環さんの生い立ち

日本人で初めて、世界的に活躍されたオペラ歌手ということで、
どういう生い立ちで、そうなったのか、とても気になります。

三浦環さんの生い立ちをまとめました。

◇生まれと子供のころ

明治17年(1884年)東京の生まれ。

もともと父親が芸事を好んでいたこともあって、
3歳から日本舞踊、
6歳から長唄と箏を習っていて、
子供の頃からすでに歌声を褒められていました。

日本の音楽ですが、
やはり音楽の下地はあったわけですね。

◇学校と結婚

女学校時代に、
音楽教師の杉浦チカ先生に音楽家になることを強く勧められて
東京音楽学校(現在の東京芸大ですね)を目指したのですが、

父親に「娘を西洋の芸者にするつもりはない!」との猛反対されます。

そこで、どうしたのかと言うと・・

父親が勧める縁談を受け入れることとの交換条件で、
東京音楽学校への進学を果たします。
このとき、三浦環さん若干16歳。
夫は軍医の藤井善一という人。

音楽のために、16歳で、好きでもない男性と結婚!!
何かを成し遂げるには、時として何か大切なものの犠牲が必要なようです。

そして、東京音楽学校に入学して、
滝廉太郎からピアノを幸田延から声楽を習いました。
滝廉太郎は、「荒城の月」の作曲で有名な人ですね。

またこのころ、三浦環は「自転車美人」としても話題になっています。

◇初のオペラ公演

そして、三浦環さんは、
明治36年7月、日本人による初のオペラ公演
グルックの『オルフェオとエウリディーチェ』でエウリディーチェ役として歌い
大成功を収めます。
このとき若干19歳。

20歳(明治37年)で東京音楽学校を卒業後は、
研究科に進んで声楽の研究と声楽の指導を始めます。
弟子は40~50人もいたそうです。
レコードも吹き込み、音楽家としても活躍しはじめました。

指導を受けた中には、
あの「赤とんぼ」の作曲で有名な山田耕筰もいたそうです。

◇離婚と再婚とドイツ留学

歌の仕事にどんどんのめり込んでいった三浦環さん、
夫にとっては、いつも家にいない奥さんにたいへん不満がつのります。

当時は、職業婦人などは少なく、女性は専業主婦が当たり前の時代、
当然といえば当然です。

夫に、「歌か夫かの選択を迫られ」悩んだ末に
21歳のときに、離婚しています。

その後、29歳のときに、
芸術に理解のある医師・三浦政太郎と再婚して、
30歳のとき(大正3年)ドイツに留学します。

間もなく第1次世界大戦が始まったため、
ドイツを逃げ出してイギリスへ渡りました。

ここから運気が急上昇します。

◇イギリスでオペラデビュー、蝶々夫人の大ヒット

三浦環さんは、イギリスで世界的な指揮者ヘンリー・ウッドに認められ、
オペラ歌手としてデビューします。

イギリスで日本人がデビューするのは初めてで、
大きな話題となり、オペラ「蝶々夫人」に主演するチャンスに恵まれます。

「蝶々夫人」は日本をテーマとしたオペラなので
初めて日本人が「蝶々夫人」に主演するということで話題となり、
三浦環さんの「蝶々夫人」は大ヒットします。

『蝶々夫人のあらすじ』は次のようです。

小説家J.L.ロングの小説「蝶々夫人」を作曲家プッチーニがオペラにしました。

話は、明治中期の長崎が舞台です。
没落藩士令嬢の蝶々さんとアメリカ海軍のピンカートン中尉との
愛と悲劇を描いたラブストーリー。

2人は恋愛結婚して子供が生まれますが
ピンカートン中尉はそのうち戻ると言って
勝手にアメリカに帰国してしまいます。

3年後やっとピンカートンが長崎に帰ってきますが、
アメリカで結婚したケイト夫人と一緒でした。

彼を完全に信じていた蝶々さんはショックのあまり、
子供に目隠しをして、自分は自殺してしまいます。

三浦環さんは、アメリカからも招待され、アメリカへと渡ります。

そして、アメリカでも「蝶々夫人」が大ヒットし、
各地で「蝶々夫人」を公演して、
日本で最初の世界的なオペラ歌手となりました。

蝶々夫人のオペラを書いたプッチーニ本人からも、
「マダムミウラのために作られたような舞台だ。あなたこそ
最高の「マダムバタフライ」だと絶賛されたそうです。

◇帰国と古関裕而との出会い

以後、巡業を続けて、「蝶々夫人」の2000回公演を機会に、
日本に永住することに決めて、
51歳の時に帰国しました。
昭和10年11月の事です。

このあとに、古関裕而の曲と出会います。

このころ古関裕而は、全くヒット曲が出ず、
所属する日本コロムビアをクビになりかけていました。

やっと昭和10年に作曲した「船頭可愛いや」が初ヒットしました。
これでクビをまぬがれました。
コロンビア入社して4年と8カ月目のことです。

「船頭可愛いや」は、「音丸」という芸名の
芸者のコスプレをした歌手が民謡調に唄ってヒットしていたのですが、

日本に帰国した三浦環さんが、
「船頭可愛いや」を聴いてえらく気に入り、
古関裕而に「船頭可愛いや」をレコードに吹き込みたいと頼みこみました。

古関裕而は、妻の古関金子が三浦環の大ファンだったので大喜びして、
三浦環さんの「船頭可愛いや」のレコード吹き込みを承諾したということです。

さらに 古関裕而は、三浦環さんに「月のバルカローラ」という曲を
プレゼントして、レコーディングしています。

三浦環さんは、日本で音楽活動を続けていましたが、
戦時中の疎開生活で体重が激減して衰弱していって、

戦後、音楽活動を再開しましたが、
昭和21年(1946年)5月25日に膀胱ガンで亡くなっています。
62歳でした。

グラバー邸に三浦環さんの偉業をたたえた銅像があります。
グラバー邸を訪れる機会があれば、是非見てみてください。

さいごに

今でこそ、海外活躍する音楽家はたくさんいますが、
100年位前に、世界的に活躍した日本のオペラ歌手がいたとは、驚きました。

その三浦環さんを、女優の柴咲コウさんが演じます。

柴咲コウさんは、歌もとても上手で私も大ファンです。
ただ、オペラの発声法とは、全く違うので、
練習もたいへんではなかったかと思います。

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