「エール」の主人公の古川雄一(窪田正孝さん)の妻になる、
関内音(二階堂ふみさん)。
古川雄一は、作曲家の古関裕而さんがモデルなので、関内音の実在モデルは、
古関裕而さんの奥様になった人です。
古関裕而さんの奥様って、実際はどんな人で、どんな生い立ちだったのか、
とても気になります。
関内音の実在モデルについてまとめました。
関内音のモデルは?
関内音の実在モデルは、内山金子さんです。
◇生まれ
内山金子さんは、明治45年(1912年)に
愛知県豊橋市で、7人兄弟で、長男と6姉妹の3女として生まれました。
当時は、今と違って兄弟が多いのは珍しくはなかったです。
金子さんの父親は、陸軍獣医として「日清・日露戦争」にも出征していて、
退職後に、陸軍に馬具などを納める工場を経営していました。
従業員も多くて、裕福な家庭だったようです。
内山家は、音楽好きだったので、
オルガンや琴で合唱して、いつも音楽の絶えない家庭でした。
兄弟が多いからみんなで、合奏とか合唱していたんでしょうね。
にぎやかで、楽しそうな家族だったんですね。
最終的に音楽の道に進んだのは、金子さんだけだったようですが・・
そういう下地があったので、金子さんは音楽が大好きで、読書も大好きでした。
将来は女子大の国文科か音楽家と考えていました。
ところがです、金子さんが12歳の時に父親が亡くなり、
お母さんが事業を引き継いだももの、家計は苦しくなりました。
そこで、金子さんは、豊橋高等女学校(今の豊橋東高校)を卒業すると、
名古屋で知人の雑誌編集を手伝うようになります。
同時に歌の勉強も始めます。
このあと、運命が大きく動きます。
◇古関裕而さんへの手紙
昭和5年(1930年)1月、
金子さんは新聞記事を見てとても驚きます。
福島の無名の作曲家が、
イギリスの作曲コンクールに「竹取物語」などの曲を応募し、
2等に選ばれたという記事です。
金子さんは、小学5年生の時に、
学芸会で「かぐや姫」の役を演じたことから
それ以来「かぐや姫、かぐや姫」呼ばれていて、
「竹取物語」という曲名にも運命を感じます。
その無名の作曲家が古関裕而さんです。
運命を感じた金子さんは、古関裕而さんにさっそく手紙を書きます。
最初の手紙は「竹取物語の楽譜が欲しい」という内容でした。
このへんの行動力、見習いたいですね。
ピピッときたら、即行動は、運命を大きく動かします。
それから古関裕而さんと文通が始まります。
古関裕而さんにとっても、音楽家を目指している金子さんの存在は
大きかったようです。
金子さんからの古関裕而さんへの手紙でこんな文章が残っています。
「広いこの世界にこうして結ばれた魂と魂。お互いが真剣に生一本な
心の持ち主だったら一致したとき、必ず偉大な芸術を産み出すことができる
と信じます。」
いや~すごい文章です。当時の通信手段は手紙、それにしてもこんな文章は
なかなか書けないと思います。
現代のSNSの通信では、まずこんな文章はでてこないですね。
◇結婚
古関裕而さんは、イギリスの作曲コンクールに入賞したことで、
5年間のイギリス留学のチャンスを得ていましたが、
とてもイギリス留学に迷っていました。
というのは、留学費用の事もありましたが、
愛する金子さんと、5年間も離ればなれになる事に耐えられなかったのです。
古関裕而さんのこのときの手紙の文章が残っています。
「貴方を愛し、貴方から愛されるようになった自分故に、
今創り出しつつある私の芸術は、最大価値のものです。
洋行、貴方に別れるかと思うと、何だか行きたくなくなります。
貴方のそばにいつまでも居たい。いつまでも、いつまでも、
離れずに居たい。」
ものすごい熱烈なラブレターです。
いまどき、こんな文章は書けないじゃないですか。
結局、古関裕而さんは、イギリス留学を断念して、
昭和5年6月に、金子さんと結婚します。
文通を始めてたった3カ月後、
古関裕而さん21歳、金子さん18歳のときです。
この電撃結婚は、まわりの人は、さぞかし驚いたと思います。
◇上京
結婚して古関裕而さんは、日本コロムビアと契約し、
夫婦で上京します。
声楽を学びたかった金子さん、
上京すると合唱団に入団、その後帝国音楽学校の声楽部本科に入学します。
長女が生まれて、子育てのために退学しますが、
その後、
歌手のベルトラメリ能子さんやディーナ・ノタルジャコモさんから声楽を学んで、
オペラ公演や放送にも出演するようになりました。
でも、戦争が激しくなって、だんだん活躍の場は少なくなっていきました。
◇疎開と腸チフス
昭和20年(1945年)5月の東京大空襲で、東京の自宅が全焼、
娘さん2人を福島の実家に疎開させます。
金子さんもそのあと、福島に行きますが、
腸チフスで重体になってしまいます。
一時命が危なかったようですが、ご主人の必死の看病もあり、
命を取り留めたというエピソードがあります。
金子さんは、女学校時代に満州にいるお兄さんの所へ遊びに行き、
帰るときに乗っていた客船が座礁し沈没して
九死に一生を得たというエピソードもあります。
誰かに守られていたのかもしれません。
◇戦後
戦後、金子さんは東京に戻って、
当時、日本初のオペラ歌手で国際的に活躍していた三浦環さんの後継者になろうと、
声楽の勉強を再開しました。
三浦環さんは、古関裕而さん作曲の 「船頭可愛いや」という曲をとても気に入り、
レコーディングを頼み込んできたというエピソードがあり、
古関裕而夫婦とも実際に交流がありました。
金子さんの歌声は評価が高くて、
夫の古関裕而さんは、金子さんのためにオペラ3作を作曲しています。
(オペラ「朱金昭」「トウランドット」「チガニの星」)
昭和21年に、長男が生まれ、子供が3人となり、
育児や家事が忙しくなって、オペラ3作を最後に声楽からは引退しています。
金子さんは、声楽からは引退をしましたが、文芸にも才能があったので
昭和33年(1958年)に「婦人文芸」に参加して、詩や随筆を寄稿しています。
さらに金子さん、絵にも才能があって、スケッチをするようにもなっていました。
◇トレーダー
金子さん、絵に描いたような、良妻賢母の芸術家と思いきや、
昭和35年頃(1960年代)は、
週4回のペースで山一證券の渋谷支店に通い、
「失敗はほとんどありません」と豪語するほど株取引にのめりこんで、
金融界では「百戦錬磨の利殖マダム」と呼ばれていたとか。
これで、一気に金子さんのイメージが崩れますが、
芸術以外にも才能があったということです。
もともとは、芸術にくらべて株などは低俗に思っていたようですが、
利益がどんどん増えるにつれ、そんな思いは吹き飛んで、
“株は芸術なり”と言っていたそうです。
◇晩年
金子さんは、昭和51年(1976年)に乳がんになり、
2度の手術を受けて闘病生活を送っていましたが、
昭和55年(1980年)7月に、68歳で亡くなっています。
あとがき
関内音の実在モデルの内山金子さん。
ものすごく情熱的で行動力のある人だったと思います。
古関裕而さんへの情熱で文通3カ月で電撃結婚。
声楽に対する情熱をずっと持ち続け、子育てもしながらオペラ歌手になり、
豊富な才能で、随筆や詩や絵も描いていた。
なんともうらやましい一生です。
古関裕而さんへのあふれる愛情と、仕事をしながらの良妻賢母ぶり。
でも・・・・最後は株のトレーダーとして、業界でも有名だったとか
何とも豪快な人生です。
その内山金子さんを、女優の二階堂ふみさんがどのように演じてくれるのか
とっても楽しみです。
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